太平洋戦争における3つの部隊を紹介します。
①ではマレー・フィリピン方面の山下奉文をダイエーの創業者・中内功の戦争体験と合わせて、②では龍兵団というフィリピン戦・ジャワ攻略・ビルマ線と太平洋戦争緒戦で活躍した坂口支隊を、③では神風特別攻撃隊と同じくして魚雷型の特攻兵器「回天」を紹介していきたいと思います。
①山下奉文と中内功
中内功と山下奉文の比較をして調べ物をしたので、山下奉文っぽい人物を描きました。
ダイエーの創業者・中内功は、「フィリピンの野戦でいったん死線を通ってきたのが私の原体験」と口ぐせのようにいい、つづけて、「人間は幸せに暮らしたいと常に考えています。幸せとは精神的なものと物質的なものとがありますが、まず物質的に飢えのない生活を実現していくことが、われわれ経済人の仕事ではないかと思います。」※1と述べています。
ダイエーを拡大させ、一時は日本のインフラともなった経営の根源は、戦争体験にあったようです。
以前、ダイエーの中内功の従軍体験を読んだとき、アメリカンの圧倒的な物量の前に消耗戦を強いられ、食料不足や飢餓・マラリアなどの病気や精神的困憊など、凄くすさまじい体験があったんだな、と思いました。
しかし、今になってようやく、その従軍体験はどんな歴史の流れの位置づけの中で起こったできごとなのか、整理できるようになりました。
ショッキングな体験を受けたり、その話を聞いたりすると、なかなかそのショッキングさに心を奪われ、その体験の冷静な位置づけの整理を忘れてしまう事が多いです。
心を揺さぶられることも大切ですが、その出来事を冷静に何度も反芻して、捉えなおしてみることも大切なんだろうなと思いました。
中内功の戦争体験は、太平洋戦争の緒戦とも言える「真珠湾攻撃」とほぼ同時に行われた「マレー作戦」を指揮した山下奉文(異名:マレーの虎)の「マレー作戦」「シンガポールの戦い」の後の経歴と近いところがあります。
山下奉文は、シンガポールの陥落までイギリス軍に対して敏速な快進撃を行ったものの、マレー・シンガポールを一時的に統治した後、1942年7月には満州へ異動します。
中内功も、広島で簡単に歩兵の訓練を受けつつも異例の外地に移動になり、1943年の初めには満州に移動になりました。満州の東側のソ連国境と隣接する綏南で酷寒なか軍事訓練を受けます。1938年起こったソ連国境での衝突の張鼓峰事件より北側に位置し、1939年に満州の西側・モンゴル国境付近で起こったノモンハン事件に参加した残兵もそこにいたようです。
その後、山下奉文は満州から1944年9月フィリピン防衛のために再編成された第14方面軍司令官としてレイテ島に行きます。6月にはサイパン島などのマリアナ沖海戦によってアメリカに日本の絶対防衛圏を破られ、なんとしてもフィリピン方面のアメリカの侵攻を食い止めようという時期の異動でした。そして10月にレイテ沖海戦が起こり(そこでは神風特別攻撃隊も創設されています)、レイテ島で敗走したため、北側の島・ルソン島でアメリカ軍などの連合軍と決戦する事にします。
そのルソン島に、中内功は満州からレイテ沖海戦が始まる少し前の7月に移動してきて、山下奉文の第14方面軍の下に配属されます。その頃はまだ戦場はレイテ島であり、またルソン島でも真ん中の西にあるリンガエン湾の警備で、ルソン島の南部にはマニラ湾があったため、最初は来るべき決戦に向けて塹壕掘りを5か月くらい続けていました。
しかし、レイテ沖海戦で日本軍は敗れ、マニラも陥落しつつある中、1945年1月とうとうリンガエン湾にもアメリカ軍が上陸し、中内の属する部隊も応戦することになります。このリンガエン湾では戦車を持っている部隊もいたため太平洋戦争では珍しく戦車同士の戦いも激しく繰り広げられています。また、零戦では当時パイロットの不足により急速に教育が進められたかなり若いパイロットが撃墜されたりもしたようです。
山下奉文司令官も1月21日には大規模な夜襲作戦などを行うものの、全体的にはアメリカ側におされ、何とかルソン島北部に物資を移動させ、山岳部に部隊を小分けにしゲリラで応酬する作戦にでました。アメリカ側の激しい攻撃と食糧不足やマラリアに悩まされ、中内も食糧不足のため軍靴を噛んだため後に多くが入れ歯になり、また手りゅう弾による傷跡が残る結果になったり、かなり過酷な戦いを強いられました。
しかし、8.19までゲリラは続けられ山下奉文と中内功は、アメリカ側の捕虜になります。山下は現地での裁判によって断罪されますが、中内は「ナカウチ」という日本人では珍しい名前と「ブロークンイングリッシュ」によって何とか日本に帰国できました。
※1…『カリスマ』佐野真一、日経BP社
②龍兵団の坂口支隊
かつて、太平洋戦争期の日本軍にも最強と言われた第56連隊は「龍兵団」と呼ばれていました。
そして、その第56連隊の中でも「坂口支隊」という隊は、調べていくと太平洋戦争の東南アジアでの動きを迫力を持って伝えてくれるな、と思いました。
1941年12月東南アジアのマレー半島と、ハワイの真珠湾でほぼ同時に始まった太平洋戦争ですが、坂口支隊はその後のマッカーサーと戦うことになるフィリピン攻略戦の後方支援としてルソン島よりインドネシアよりの島で戦います。その際、日本人の在留邦人も多く助け、そこから坂口支隊の名声があがったようです。フィリピンは、日本からの移民がもともとかったようですが、太平洋戦争時にはアメリカ連合国軍に迫害されていたため、助けることも太平洋戦争の緒戦の目的でもあったようです。
その後、マレー半島とフィリピンの攻略が進んだ後の蘭印作戦に、坂口支隊は参加します。蘭印作戦は石油資源が取れる場所の攻略が主な目的ですが、坂口支隊も油田の攻略を目指しています。
そして、蘭印作戦のもっともハイライトともいえるジャワ攻略戦では、主流の一つとして活躍します。ここで、第56連隊(龍兵団)の中でも「坂口支隊」の活躍が広く日本人に知られたようです。
そして、マレー半島とフィリピン、そして蘭印(インドネシア)の攻略により、特にイギリス東洋艦隊を駆逐し、太平洋戦争の大きな目的であった中国とアメリカ連合国軍が連携していた援蒋ルートの分断のために、ビルマに坂口支隊は行きます。その際、寄港したシンガポール付近でインド洋作戦でイギリス東洋艦隊を更に駆逐した日本の連合艦隊とすれ違います。
ビルマでは、一足早く来ていた本体でもある第56連隊に坂口支隊は合流して、ビルマと中国の国境を超えて、見事援蒋ルートの分断を成功します。ただ、その後、ビルマに留まってその地域の防衛を固めるのですが、1944年から徐々にアメリカ連合国軍が勢力を巻き返してくると迎撃に苦しくなり、9月には全滅とも言える玉砕をしてしまうのですが、今あらためて調べてみると、太平洋戦争の日本の展開の理解に繋がるなと思いました。
特に、東南アジアに広く同時に展開した太平洋戦争は、具体的にどの隊がどう動いたか、追っていくことが、複雑な展開の理解を助けると思いました。
③魚雷型の特攻兵器・回天
佐藤秀峰『特攻の島』を読んだので、9巻の表紙を自分なりの解釈で描きました。
佐藤秀峰は『海猿』や『ブラックジャックによろしく』などの作品がある漫画家で、『特攻の島』は、太平洋末期に神風特別攻撃隊の誕生とほぼ同じくして登場する魚雷型の特攻機「回天」を題材に描かれた作品です。
回天は1944年2月太平洋戦争後半のトラック諸島のアメリカの猛攻撃から本格的に企画された特攻兵器です。そして、6月にサイパンなどのマリアナ諸島が陥落され、9月には回天の量産体制が整ってきました。10月にはレイテ沖で神風特別攻撃隊が運用されたのと同じく、11月に回天が初運用されています(ちょうど特攻という選択肢に現実味が帯びてきた時期だったのだと思います)。戦場は神風特別攻撃隊が戦っていたフィリピン戦線の周りの海域で、周りにいるアメリカの後方支援でした。
1945年に2回目の運用もフィリピン戦の付近の後方支援としての迎撃でした。
3月には東京大空襲が起こりアメリカの無差別爆撃が始まり、4月には沖縄戦と日本本土へアメリカが着々と近づいてきました。そして6月には戦艦大和などが沖縄戦の海上での支援を行うがあえなく沈没してしまい、日本連合艦隊が壊滅してしまいます。そして、回天のクライマックスとも言える戦いは、7月沖縄戦後の兵力を休息するためと物資を補充するために一部のアメリカ軍がレイテに帰る途中を迎撃する任務でした。この時には、回天は移動中は周りの状況を確かめることが難しく停泊している艦隊を今まで狙っていたのですが、今回は航海している軍艦を迎撃する任務でしたが戦果も挙げています。
その後、クライマックスの戦いで出動した艦隊の一部が迎撃したのが原爆をのせた帰りの軍艦で、8月には終戦を迎えることになります。